習志野電鉄の発展

習志野電鉄のはじまり

 「習志野電鉄が薬園台~大久保間に線路が建設された際、薬園台の終着予定地付近にポツンと空いていた土地がありました。この土地を利用して習志野電鉄の車両基地が造られ、本社が整備されることになります。」

 上記の文章は習志野電鉄沿線誌2010年7月号より引用したものです。戦後に一度拡張こそしたものの移転はしておらず、ずっとこの地で習志野電鉄の運行を支えてきました。
 習志野電鉄の開業時(1912年)は単行の路面電車5両でスタートしました。その後、続行運転の導入で車両数が14両となりますが、単線故に大きな増発も出来ず、車両数はこれで頭打ちとなっていました。

戦後の混乱期

 戦中・戦後は部品の調達がままならず、車両の運行に苦慮していました。そんな中、京成から戦火を免れた車両を譲り受けることになります。1947年に1両、1948年に1両を譲り受けたのですが、この時、習志野電鉄では「軌道規格から鉄道規格に向上させれば、京成から容易に中古車をもらえて、輸送力増強もできる」との考えで、早速規格向上が検討され、1951年以降より実行に移されることになりました。

余裕を持ったはずの設計

 1951年に車両の大型化を開始した際に薬園台車庫の構造が改められることになりました。
 具体的には大型車両である100形電車を順次投入していき、余剰となった1形電車を大型車体に載せ換えて輸送力増強を図っていくというものでした。
 1956年の完成後、留置線5線を持つ車両基地となります。縦列停車で1線に2両編成の車両を2本収容することが可能ですので、10本まで収容可能ということになります。
 この数値の根拠は、北習新線開業後に想定していた2両編成8運用予備2本(合計10本)体制に対応するためであり、当時6運用予備車2本体制(しかも大型化開始前は1両編成で12m級)であったことを考えると、かなり余裕を持った設備でした。
 一般に車両基地は「稼げない設備」ですので、投資を最低限に留めるのが車両基地の在り方でしょう。そうすると、夜間留置で対応するという手もあったのですが、戦後の混乱期に留置していた車両の重要部品が盗難される事件が相次いでおり、そういった記憶が生々しく残っていた時節でもあったことから、「費用が掛かっても全車両を車庫に置きたい」という意図があったようです。

逼迫する車両基地

 かくして単行車(12m級狭幅車)を2両編成(17m級広幅車)に置き換えることで輸送力を2倍以上に押し上げ、また新線を建設しても全車両が入るように余裕を持って建設されたはずの車両基地でしたが、1967年以降の増結開始で瞬く間に余裕がなくなってしまいます。
 元々、薬園台車両基地は敷地拡張を考えた構造になっていません。というのも、北方を成田街道、南方を検修庫で挟む構造としてしまったことから、1967年以降の3両編成化に対応出来なくなっていました。
 というのも、薬園台車両基地自体は留置用に5線で、2両編成なら10本収容できるのですが、3両編成だと5本しか収容出来ません。この頃には情勢が安定してきたということで庫外での留置を開始しますが、全編成の3両編成化が完成した1977年時点で10本が在籍していたため、実に所有する車両の半数が車両基地に収容できない状況となっていました。
 車両基地に収容できない状況でまずいのは、ラッシュの終了から運用数が少なくなる日中に、電車をしまう場所がないために営業列車をふさぐということでした。特に習志野電鉄で日中に車両を置ける駅は薬園台、二宮神社、大久保、実籾の各1線、合計4線しかありません。
 この時、日中は3運用あったので、どこかに7本留置出来ればよいことになります。内5本は前述のとおり車両基地に収容できれば良かったので、残り2本をどうにかすれば良いことになります。結局どうしたかと言うと、線路が2線あった薬園台と実籾の各駅に1本ずつ車両を収容することでとりあえずは解決しました。
 この他、新車搬入の際など、一時的に車両が増加する場合については大久保や二宮神社などの側線に疎開させて対応するなど、結構綱渡りな状況ですし、容易に複線化が出来ないのも、これ以上輸送力を増強する場合は車両基地新設の必要があるからです。
 1980年代以降は4両編成化が進められていくことになりますが、元々4両編成までなら留置可能で、有効長の延伸さえすれば留置可能数も減らないということもあり、一部編成の4両化が進められていきます。

「もしも」の世界

 このように習志野電鉄では戦後から輸送力増強を繰り返した結果、余裕を持っていたはずの車両基地の余裕が瞬く間になくなってしまいました。
 過去を振り返って一つファインプレイだったのは事実上の4両編成対応規格だったことでしょう。3両編成化の際に葛藤こそあったでしょうが、これを乗り越えたために4両編成化もなし崩しに行われました(もっとも各駅の有効長を延長する必要もありました)。
 もしこれが1線に2両編成3本を収容する4線構造(2両編成12本が収容可能)だった場合、3両編成化は難なく行われたでしょうが(3両編成は8本収容可能)、4両編成化の際に車庫の拡張と駅有効長の延伸を同時に行わなければならず、車両4ドア化や座席折り畳みなどの小手先の対策にどうにかせざるを得なかったのではないでしょうか。あるいは車庫を拡張しなくても、2両に分割可能な編成を用意し、車庫に4両編成と2両編成を1本ずつ入れるような、いびつな運用が組まれていたかもしれません。

*習志野電鉄は実在しない鉄道です。

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